法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

選んだ手が最善手

(1)昔々の記憶

昨年8月上旬から、思考能力のリハビリの一環としてソリティア(正式名クロンダイク)に取り組んでいます。

当時の私にはソリティアは大変難しく、どんなに頑張ってもまったく歯が立たない状態でした。とは言え確率論の世界でもあるので、少し慣れてくると、何十回かに一回くらいは成功するようになりました。もちろん偶然の産物でした。

そうやってソリティアに取り組んでいると、不思議なことに、昔々のことを思い出すことがよくありました。何度も何度も同じような場面を思い出しては当時の感情を味わってました。繰り返して思い出しているうちに少しずつ気付きがあり、昔々の出来事に対する見方が少しずつ変わっていきました。


(2)無数の分岐点

それ以来、昔々のことを思い出しては、当時の感情を反芻することが多くなりました。そして少しずつ気付きをいただいてます。同じような状況を比較することで、周りの人たちの気持ちに対する理解が少しずつ深まっていきました。同時に自分自身に対する理解も少しずつ深まっています。

その結果、当時は一本道だと思っていた出来事の流れも、実は無数の分岐点があったのではないかと思うようになりました。たくさんの思い込み、たくさんの思考のクセ、たくさんの感情の反発、そんな無数の事柄に阻まれて、それ以外の選択肢がまったく見えなくなっていたのかもしれません。そして、一本道だと思い込んでいたのかもしれません。


(3)精一杯の最善手

とは言え、当時の私が精一杯生きた結果が、その道を選ぶことだったのだと思います。その道は当時の私にとっては最善手で、それ以外の手はあり得なかったのだと思います。だからこそ一本道に見えていたのだと思います。

その道を選んだ結果、様々な体験をすることができました。そのお蔭で今の私があります。ですから、長い目で見れば見事に正解を選んでいたのだと思います。はたしてそれは、偶然だったのか、あるいは必然だったのか…


(4)深淵なフリカワリ

囲碁で喩えるなら、大きな「フリカワリ」を選んだのではないかと思います。手持ちの大石を捨てる代わりに、深淵な大石を得ることができました。そして私自身が大きく変わりました。

さらに喩えるなら、人生は神様との指導碁なのかもしれません。優しい神様は、どんな手を選んでもベストな結果となるように、上手に計らってくださっているのかもしれません。それに気付けるかどうかで、人生の色合いが随分と違って見えるのかもしれません。

名ばかりの専門家、名もない専門家

(1)目立つ専門家

日本では立派な肩書きを持つ人の発言が信頼を集める傾向があるように思います。

しかしながら、日本では立派な肩書きを持つ人は、予算や人事や会議などで忙殺される傾向があるのではないかと思います。そのため、肩書きが立派になればなるほど、情報通になったり影響力が大きくなったりする反動で、専門分野についての知見は古くて浅くて間違いの多いものになっていく傾向があるのではないかと思います。(偏見たっぷりで申し訳ありません)

そのように思っているので、専門家の意見を聞くのであれば現場で汗水垂らして働いている人に限る、と私は思っています。


(2)現場の専門家

現場で働いている専門家の中にも、いろいろなタイプの人がいると思います。

私は、上意下達タイプの人や、俺様はエライんだぞ病の人の話には興味がありません。

私が聞き耳を立てるとしたら、自分なりの視点を持って現状分析をしている人に限ると思います。そのような人の話は100%正しいとは限りません。むしろ、暗中模索で試行錯誤されているでしょうから、間違いが多いかもしれません。しかし、中間報告的な玉石混交の話の中に、途轍もない宝物がたくさん眠っているのではないかと思います。だからこそ、興味深いと思います。宝物を見極められる知見がないと「猫に小判」や「馬耳東風」になりそうなところも、スリルがあっても面白いと思います。


(3)広報の専門家

日本で立派な肩書きを持とうと思ったら、人事権のある人に認められないといけません。

例えば、役所に取り立てられようと思ったら、役所におもねらなくてはなりません。企業に取り立てられようと思ったら、企業におもねらなくてはなりません。日本では、出世すればするほど、言いたいことが言えなくなってしまうのではないかと思います。

そのように思っているので、日本で立派な肩書きを持っている人は、極端に言えば「広報担当」と思ってもよいのではないかと思ったりしています。(偏見たっぷりで申し訳ありません)


(4)型破りな専門家

逆に言えば、立派な肩書きを持ちながらも、自分自身の言いたいことをきちんと発言できている人は、とてもすごい人だと思います。

そのような人は世間からは「型破り」と評せられているかもしれません。型破りな人がどんどん出てくるといいなぁと思います。

丁寧に慎重に考える

(1)ソリティア

昨年8月上旬から思考脳力のリハビリの一環としてソリティア(正式名クロンダイク)に取り組んでいます。お蔭様で成功回数が4444回を超えました(通算試行回数2万3389回、通算成功率約19%)。9ヶ月近くかかりました。

最近はソリティアを、頭脳作業前のウォーミングアップに、休憩時の気分転換に、終了時のクールダウンにと、大いに活用しています。大概、1回成功するまでが目安です。しかし調子の波が大きいです。2〜3回で成功することもあれば、20〜30分経っても成功しないこともあります…


(2)一つ一つ丁寧に

では、成功率の高い時と低い時では、何が違うのか…

一番大きな違いは、思考の丁寧さのような気がしています。

私は脳の一部が壊れているので、発症前と同じ思考方法では脳がうまく働かないことがよくあります。きちんと思考するためには、現在の脳に合わせた思考方法を取らないといけません。

そのため例えば、発症前であればパパッと考えることができたようなことでも、今は丁寧にひとつひとつ考えないといけません。まさに「急がば回れ」な状況です。

ソリティアでも同様で、発症前ならパパッと考えられた状況でも、今は丁寧にチェックしないといけません。それができている時は成功率が高いようです。ソリティアは運の要素が大きいので100%は無理ですが、2〜3回以内で成功する確率はとても高くなります。

しかし、手を抜いてパパッと考えようとすると、実際には全くチェックできてないようで、見逃しが多くなって成功率がとても低くなります。一旦そのような状況に陥ると、丁寧に考える思考方法に戻ることがなかなかできなくなって、、20〜30分かけても全く成功できないことがよく起きます。。


(3)休憩は大切

二番目は、その時々の脳の疲労具合です。

私は「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」で、一度に考えることのできる範囲が発症前より随分と狭くなりました。昨年8月上旬にソリティアに取り組み始めた頃は、場札のほんの一部しかチェックすることができない状態が長く続きました。

ご存知のようにソリティアの初期画面は、下半分に場札(1枚〜7枚の7列のカード)、左上に山札(場札以外の24枚)、右上に組札(4種類のマークごとにA〜K)置き場が表示されます。

本来なら、そのすべてをチェックしながらプレーしないといけません。ところがソリティアに取り組み始めた昨年8月上旬時点では、どう頑張っても場札の1〜2列しかチェックできませんでした。それ以上は「思野」に入りきらなかったのです。しかも「思野」を移動することもできませんでした。

お蔭様で思考脳力のリハビリを通して「思野」が少し広がりました。さらに、「思野」を移動できるようになったので、ひとつひとつ丁寧にチェックしていけばプレーできるようになりました。

ところが、「思野」の広さは脳の疲労具合によって広がったり狭くなったりするようなのです。

幸い、疲れが取れているときは丁寧に取り組めば成功率が高くなります。しかし疲れがたまってくると「思野」が狭くなって、「思野」の移動も上手にできなくなってしまうようです。その結果、丁寧にチェックしているつもりが、実際にはまったくチェックできてないようなのです。

現状では対策の仕様がないので、しばらく休憩するしかありません。


(4)慎重に暮らす

おそらくこれは、ソリティアに限らずあらゆる場面で言えることだと思います。

すなわち、発症前と同じつもりで思考すると、実際にはまったく思考できてないということが、よく起きているのではないかと思います。あるいは脳に疲労がたまって「思野」が狭くなって、思考してるつもりがまったくできてない、ということもよく起きているのではないかと思います。

ですから今の私に必要なのは、(1)脳に疲労が溜まっている時は休憩する、(2)脳の疲れが十分に取れている時でも一つ一つ丁寧に考える、(3)念の為、時間を置いて何度も見直す、という慎重な姿勢ではないかと思います。

できるだけ慎重にならないと、真剣に考えてるつもりなのに、実際にはまったくのデタラメだった、ということになりかねないからです。しかし、慎重になれば頭脳作業できるところまで回復できたのは、とてもありがたいことだと思います。

脱・村社会

原子力村も感染症村もICT村も競技村も土建村も含めた村社会は、親分子分関係が第一で、親分は利権第一なので(子分に食わせないと親分として食っていけないので)、村社会抜きの意思決定手段・実行手段を構築しないと、日本も世界も痛い目に会うしかないんじゃないかと思います。

例えば、村八分になった専門家や、下野した専門家が力を合わせることができると、そしてそれを世間が応援できる仕組みを構築できると、世の中が変わっていくかしら…

どうすればそのような仕組みが作れるか、いますぐにはわかりません。ありきたりの言葉で表現するならば、、何百年も続く老舗企業のように、地球と調和しながら「三方よし」の社会を目指して活動できるとよいのかな…

吉田太郎(著)「文明は農業で動く」

吉田太郎(著)「文明は農業で動く」を読みました。

世界各地の伝統農法のうち、現代まで生き残っているものが紹介されています。著者は日本ではあまり知られていない農法を中心に紹介したかったとのことで、中南米と南アジアの伝統農法の紹介に力が注がれています。以下は読後の感想です(内容紹介ではありません)。


伝統農法と聞くと、牧歌的で理想化された農村風景を思い浮かべる人もいれば、胡散臭い迷信の塊と感じる人もいるかと思います。仮に古今東西の伝統農法を調査することができたなら、その土地の風土に適した素晴らしい部分もあれば、由来の怪しい逆効果な部分もあるのではないかと思います。しかし、現代人の知見を持ってしても、その切り分けは簡単ではなさそうです。現代人の農法理解はまだまだ浅いからです。

伝統農法は、その土地の伝統的な暮らしと強く結びついていることが多いようです。そのため、伝統農法を「生産性」という観点だけから議論してもあまり意味がないようです。食糧生産は伝統農法の持つ機能のひとつにすぎないからです。

その土地に暮らす人々にとっては、食料を含めて暮らしに必要な様々なものを作り、動物や虫から人間の暮らしを守り、どんな天災が来ても生き延びるための伝統的な叡智であると同時に、日々の当たり前な暮らしという感覚ではないかと思います。その一部分を外部の人間が無理矢理切り取って「伝統農法」と呼んでいるだけではないかと思います。

そのため、農法を変えると伝統的な暮らしが続けられなくなり、農村社会の崩壊につながってしまうのではないかと思います。地域の風土は、大自然の営みと人間の営みが共生することで作られると思います。共生関係が壊れると、大自然の姿は大きく変わり、人間も暮らしを変えざるを得なくなってしまうのではないかと思います。それは近代以降、世界各地で起きていることではないかと思います。


工業的な農法と伝統的な農法の一番の大きな違いは、暮らしにおける位置付けではないかと思います。

工業的な農法は、暮らしとは完全に切り離されているように思います。実験農場で高収量を上げた農法を、各地の田畑で再現することに主眼が置かれているのではないかと思います。そのために必要なタネも肥料も農薬も機械も買い揃えて、指定通りに作業して、上手に再現できたら高収量で大儲け。しかし再現に失敗して低収量で終わったら、大赤字。天候のせいにしても、土壌のせいにしても、生態系のせいにしても、ましてやメーカーのせいにしても、何も解決しない。暮らしの一部というより、事業の世界(投資と収益の世界)ではないかと思います。商品を作っている感覚ではないかと思います。だからこそ、金融と相性がよく、世界銀行も推奨するのではないかと思います。そして大儲けする人と破産する人が出てくるのではないかと思います。

一方、伝統的な農法は暮らしの一部のように思います。老舗企業のように、人々の暮らしや大自然を大切にします。短期的な儲けよりも、長期的な安定性を重視します。大自然を征服するのではなく、大自然の一員として生きようとします。この世の存在だけでなく、神様や精霊も大切にします。そのため資本主義的な世界観とは相性が悪いのではないかと思います。

アニメ『未来少年コナン』で喩えるなら、インダストリアとハイハーバーの違いかもしれません。


ひとつだけ印象に残った事例を紹介します。

インド北部のラージャスターン州はタール砂漠を抱えて雨が少なく、旱魃が発生しやすい地域だそうです。その対策として、州の東北部では「ジョハド(Johad)」と呼ばれるダムが伝統的な方法で作られているそうです。雨季には豪流を堰き止めて土壌侵食を防ぐとともに、渇水期には水分の豊富な農地にもなり、一年を通してダム付近からの伏流水が近隣の農地や井戸に水分を与える。外部資材を必要とせず、村人自身の手で構築・維持できる。その地域ならではのダムです。

一方、大規模な灌漑用ダムはたくさんの資金、資材、人材、工期を必要とします。巨大なダムはその重量で伏流水を止めてしまうので、別途水路の構築・維持も必要となります。何百年という時間の流れの中では、ダムも水路も何度も作り直さなくてはいけないかもしれません。はたしてそのようなことが可能でしょうか…

この事例のように、世界各地でその地域の風土にあった工夫がなされているそうです。そのまま導入することはできないと思いますが、世界中を見渡すと何がしかのヒントを与えてくれる事例が見つかるのではないかと思います。


藤井一至(著)「大地の五億年」

藤井一至(著)「大地の五億年」を読みました。著者は土壌の研究者です。本書はアカデミックな視点から、著者が世界各地で観察した様々な種類の土壌について紹介されてました。

以下は私なりのメモです。ど素人のメモなので誤解がたくさんあると思います。誠に申し訳ありません。


この本によると地球は46億年前に生まれて、土壌は5億年前にようやく産声を上げたそうです。それから5億年かけて現在の土壌へと進化したそうです。

土壌の元は岩石だそうです。岩石が風化して砕けて、そこに海から植物が進出してきたうです。そして、無機物と有機物と生命が混在してできあがったのが、現在の土壌だそうです。水分や空気も含まれているそうです。そのため、元になる岩石によって、そこに生きる生命によって、気候によって、さらには5億年の歴史によって、土壌の種類は大きく異なるそうです。

一方、植物は原産地の土壌や気候や生態系に合わせて進化してきました。それを人間の都合で「品種改良」して、世界各地で栽培しています。品種改良しているとは言え、収量を増やそうと思ったら、植物に合わせて「土壌改良」しないといけません。その方法論には様々なものがあるようです。


土壌を理解するための方法論にも、いくつか種類があるようです。

知見の蓄積が一番多いのは、化学分析による理解のようです。植物が必要とする元素は何か、土壌中ではどのような分子(イオン)形態となっているか、土壌からの元素の出入りはどんな具合か、pH はどのくらいが適切か、不足分を補うにはどうすればよいか、過剰分を取り去るにはどうすればよいか、元素を「雑草」に奪い取られないようにするにはどうすればよいか、そういった視点から分析するようです。

次に知見の蓄積が多いのは、生命の特性や関係性の分析を通した理解のようです。土壌中の植物、菌、微生物、動物、ミネラルの働きや相性を調べて、総体としての動きを理解していくようです。全体像を理解するには、これからも相当量の知見の蓄積が必要ではないかと思います。

土壌をどのように理解するかによって、「土壌改良」の方法論が変わってくるようです。現在広く行われている「慣行農業」は主に前者の視点に立つようです。最近よく聞くアグロエコロジーは後者でしょうか…


下記の映像は、ふたつめの立場からの土壌の説明です。日本語字幕付きで11分55秒です。三次元アニメーションのお蔭でわかりやすく仕上がっています。

土壌はとても奥深くて、興味深いです。


〔追記 2021-06-15〕

藤井一至(著)「大地の五億年」を改めて読みました。2ヶ月くらい前に読んだときは、土壌の「ど」の字も知らなかったので、あまり理解できなかったからです。今回は前回よりは理解できたと思います。

ところで、前回も気になったのですが、プロローグに下記の記述があります。どう見ても、五行の方位と色の関係です(参考:木=東=青、火=南=赤、土=中=黄、金=西=白、水=北=黒)。

『中国の古代王朝・秦の始皇帝の陵墓の地下に眠る兵馬俑土人形)は、作成当時、五色(黄・黒・白・青・赤)で塗られたカラフルなものであったという。黄色は黄土高原、黒色は東北部の黒土地帯、白色は西部の砂漠地帯、青色は長江周辺の水田土壌(湿地)、赤色は南部の亜熱帯土壌を表す。土は、地域によって異なる風土を象徴するものであった。』(p.21)

そこで調べてみると、五行と土壌の関係については下記資料にも記述がありました。もしかしたら、土壌関係者には有名な話なのかもしれません。

社稷壇に用いられている土壌の色は,中国の土壌分布の概貌をよく示しているといえる。中国の中部は黄土高原と黄土由来の沖積平原,北方には有機質を多く含む黒色あるいは暗色の森林土壌と黒土帯が,西方には砂漠と砂漠縁辺を構成する白色(浅灰色)の灰鈣(カイ)土が,南方には紅壌地帯があり,東方には沿海地区の湿地のグライ土壌(水に漬かって青灰色を示す土)があり青色を呈するとしてよい。現代の土壌学の知識から見ても,方位と土色との関係には大きな齟齬はないとしてよかろう。』

さらに調べてみると、藤井一至さんは京都大学農学研究科出身、久馬一剛さんは京都大学農学部の名誉教授で、お二人とも土壌の研究者です。また趣味のテニスでも交流があったようです。とても深いご縁があるようですので、上述の情報も随分前から得ていたのかもしれません。

作文脳力と会話脳力

1年くらい前から作文脳力が急激に回復しました。

それまでは脳内で複雑な操作をしないと日本語の単語が出てこなかったのですが、1年くらい前から複雑な操作を省略できるようになったからです。そればかりか、第一稿から日本語の文法に則った文章が書けるようになったので、推敲の回数も随分少なくて済むようになりました。

今は作文がさらに楽になっています。毎日コツコツとリハビリ作文を続けてきたお蔭です。

もちろん発症前と比べると不便極まりない状態ではありますが、能力の向上を日々実感できるのはとてもありがたいことだと思います。


最近感じているのは、会話脳力の向上です。会話自体はまだぎこちないのですが、会話のあとの脳の疲労の残り方が、1年前の同じ季節と比べて随分と楽になっているように思います。

疲労が少ないということは、会話の機会を増やせるということですから、会話脳力のリハビリにはプラスな状況です。会話に必要な脳機能のパーツが、ようやく揃ってきたのかもしれません。

もちろん圧倒的にダメダメという状況には変わりありませんが、会話脳力の向上に向けてスタートが切れると嬉しいな…と思っています。雨垂れ石を穿つ、リハビリ奇跡を起こす。